Fin.緑の島スリランカ周遊とセイロン象の大集結 10日間 

Fin.緑の島スリランカ周遊とセイロン象の大集結 10日間 

※こちらのツアーの募集は終了いたしました。

2019年9月2日(月)発~9月11日(水)着  10日間 …¥299,000

一人部屋利用追加料金 ¥57,000

■アジア最大の野生動物の大終結『エレファント・ギャザリング』を2日に分けて2回楽しみます

1泊目のコロンボを除き、全て連泊でのご案内です。古代都市ポロンナルワには3連泊す。

■スリランカの典型的な牧歌的な農村ヒリワドゥナ村を訪問します。湖畔の村の散策、牛車や双胴船に揺られたり、ハスの葉で昼食をいただいたりと、セイロン島の伝統的な生活風景を楽しみます。

アウカナ・ブッダアルヴィハーラ石窟など、未だあまり観光化されていない遺跡群も見学いたします。

 

★スリランカが生んだ奇跡「エレファント・ギャザリング」★

 スリランカ中央部、多くの世界遺産を有する文化三角地帯に位置するミンネリヤ国立公園にはこの時期、世界中からの注目が集まります。

 その理由は、セイロン島が生んだ奇跡「エレファント・ギャザリング」。読んで字の如く、スリランカ中央部に生息する野生の象たちが、乾季に水と草を求めて国立公園中央部にある古代の貯水池「ミンネリヤ・タンク」に集まってきます。立派な牙をたくわえたオスの象や、じゃれあう子象たちなど、わずか9平方キロ弱のこのエリアに集まるその総数はなんと最大400頭。数平方キロのエリアに300頭集まることもあり、一箇所に100頭以上の象たちがのんびりと草を食んだり、水浴びをしたりする姿は迫力満点です。

 1700年前、乾季に備えて王によって造られた古代貯水池は、象たちにとっても乾季を生き延びる命の泉でした。南伝上座部仏教(小乗仏教)のスリランカでは、人間のための、そして王のための貯水池であっても、象や動物たちが水を飲みに来ることを排除しません。象たちはここに来れば、乾季でも水や草があることを子供のときに母親から学び、1700年の間、何キロにも及ぶ道のりを代々伝えてきたのです。 そして貯水池がセイロン島各地に増えた現在でも最古の大貯水池であるミンネリヤ・タンクに水と水辺の豊かな草を求めて集まるのです。

 エレファント・ギャザリングを見るには、午後から涼しくなってくる夕方がベス ト。サファリ専門のジープで、約1時間走り、乾季のため水が少なくなった貯水湖へと向かいます。その途中にも沢山の動物たちに出会います。乾季にここの集まるのは象だけではないのです。サンバー(水鹿)、猿、ヒョウ、ワニ、ミズオオトカゲ、リクガメ、孔雀をはじめとした160種類の鳥たちの群れ、78種の蝶々など、まさに動物たちの楽園です。ふと気づくと、どこからともなく多くの象が水を求めてやってきます。少し離れたところから象たちの水浴びや食事風景を眺めま しょう。ずっと見ていても全く飽きない光景です。

 エレファント・ギャザリングは、アジア最大の象の大集結なだけではなく、アジア最大の野生動物大集結にもなっています。この壮大な光景に出合える期間は、乾季のシーズンの後半だけです。ぜひこの機会にスリランカ1700年の歴史が生んだ奇跡「エレファント・ギャザリング」を体感してみませんか?

ミンネリヤ

サファリカーで観光です

シギリヤ・ロック

シギリヤ・レディー

ライオン増の爪先(シギリヤ)

シギリヤ観光は象に揺られて

ミズオオトカゲ

ガル・ヴィハーラ(ポロンナルワ)

ダンブッラ石窟黄金寺院

フルーツショップ(イメージ)

セイロンティーの茶畑(中央高地)

スリランカ5大仏像の代表格・アウカナブッダ(ケキラワ)

象の孤児院(ピンナワラ)

 

戦後、サンフランシスコ講和会議で日本の独立に尽力していただいたジャヤワルダナ大統領の記念館『JRジャヤワルダナ・センター』も訪問します。

それは終戦後の1951年、サンフランシスコ対日講和会議でのことです。対日賠償請求権を巡り、「日本を南北に分割して統治すべき」とか「日本を独立させるのは時期尚早」など、ソ連をはじめ諸外国から厳しい意見が出る中、当時の大蔵大臣(後の初代スリランカ大統領)で、英連邦内自治領「セイロン」の代表として、講和会議に出席した故ジャヤワルダナ大統領が、釈迦の言葉を引用し次のような演説を行いました。

  「戦争は終わり、もう過去のことです。私たちは仏教徒です。やられたらやり返す、憎しみを憎しみで返すのでは、いつまでたっても戦争は終わりません。憎しみで返せば、憎しみが日本側に生まれ、新たな憎しみの戦いが始まり、再び戦争が起こるでしょう。戦争を憎しみとして返すのではなく、慈愛で返せば、戦争がなくなり、平和が生まれます。戦争は過去の歴史なのです。もう憎しみを忘れて慈愛で返していきましょう。」

 彼は、セイロンの対日賠償の放棄を明らかにするとともに、日本を国際社会の一員として受け入れるよう訴える演説を行ったのです。

 第二次大戦中、日本はセイロン島のコロンボとトリンコマリーを空襲して被害を与えました。そして、永世中立国スイスや同盟国のイタリアまでもが日本に賠償を求める中、大戦中日本軍から少なからず攻撃を受けた国の発言としては異例のことでした(日本無罪論を主張していたインド、ユーゴスラビア、ビルマ[厳ミャンマー]は初めから会議には参加していませんでした)。

 このスピーチが、当時日本に厳しい制裁措置を加えようとしていた諸外国代表の心を打ち、ソ連による反対を押しきり、日本の国際社会復帰への道につながったと言われています。その後、1952年に日本は独立後、世界で最初にセイロン(スリランカ)と正式な外交関係を樹立し、国際社会への復帰を果たしました。

 

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